2004年12月11日 ケータイ 依存症

 「ケータイ依存症」なる言葉はない、今小生が作ったばかりだからだ。
しかしこの言葉を聴いて多くの人はその意味がすぐ理解できるだろう。

 以前、ユーミンのコンサートに行った。通常コンサート場内では携帯電話の電源を切るのはマナーだろう。もちろん、切るように係員から指示される。会場によっては妨害電波を流し、圏外にしてしまうこともある。もし、クラシックのコンサートでケータイの着信音が鳴ったら、台無しであることは言うまでもない。 ユーミンのようにポップス系の会場では強力なスピーカが積み上げられ、大音量が届けられる。お客様はノリノリで音楽とステージを楽しむ。
 ふとなにげなく隣の席の女性を見ると、この大音響の中で頻繁にケータイを操作している。さすがに話すことはしてないが、たぶんメールをやっているのであろう。「おいおい、けして安くはないチケットをようやく手に入れて、ステージを100%楽しまないのは、いかがなものか。」とつっこみを入れたくなる。
 コンサートより、着信メールのほうが大事なのだろうか・・・

 女子校生たちはケータイがまさに体の一部のようで、とりあげられようものならたいへんなことになる。男子でも同様かもしれない。ケータイを抱いたまま寝る少年もいるとのことで、中毒ともいえる。ケータイがなくなるとすぐに禁断症状がでるとしたら、立派な 「ケータイ依存症」であろう。

 では、こうした場合のケータイとは何を意味するのかというと、相手があって相手とのメールコミュニケーション手段である。誰かから頻繁に連絡が入り、たわいもないことでも意見を交換し、ケータイメールなら国語力の欠落した拙い1行短文でも許されてしまうところがある。まあ、それでも、誰かとコミュニケーションがとれていれば、なにか自分の存在意義を確かめられるような気がするのだろう。だから、もしメールがある一定時間以上来なかったり、あるいは相手に何度も送信してるのに返信がずっと来なかったりすると、益々不安になってくるようだ。時には怒り出して事件になることもある。

 メールは言いっぱなしである。直接会って話すのであれば、刻々変る相手の表情や気持ちにこちらも対応しなければならない。これがもしかすると「うっとうしい」「うざい」と思っているかもしれない。素直な感情表現が上手にできなくなってる若者も多いのかもしれない。
 しかし、生の人間なら刻々変る相手の表情や気持を受け入れながらより楽しく深いコミュニケーションがとれるはずだ。

 直接会って、愛の言葉を投げかけたときの相手の表情や驚きを見ることがないなら人生半分損をしてる。
 うまくいって喜んだときの相手の表情を幸せな気分で楽しむがいい。
 もし、振られたなら、相手のあからさまな不快感の表情を胸に刻み、思い切り落ち込むがいい。どちらも鮮やかな人生の1ページである。恥ずかしいことでもなんでもない。
 人生100%楽しむには生ライブが一番である。