恋のプロフェッサー(4) いまだに分からない あの時のこと

 小生にも新人サラリーマン時代があった。入社1年くらいでは、右も左も分からない。
学生時代から、お酒を飲む習慣がなかったから、先輩や同僚と居酒屋とか、小料理屋に
行くのは新鮮な体験であった。当時のお店はチェーン店ではなく、ご主人やお女将が経
営している小さな店。顔なじみなのか、同僚はお酒を飲みながら、大将と楽しくお話を
している。たわいもない話題や、会社のボヤキなど色々だ。大将は適当に相づちを打っ
て合わせていた。
 小生は、それを見てとても不思議に思えた。「この大将と同僚は知り合いでもないし
会社の事情を知っている人でもないのに、なんでこんな話をしているのだろう?話した
って何の問題解決にもならないのに・・」
 間違いないのは、その同僚は、一人暮らし経験は小生より長く、お酒の楽しみ方を知
っている点では小生は足下にも及ばない。
 知らない街にぽんと小生とその同僚を放り出したら間違いなく彼は1月以内に、なじ
みの店を見つける能力がある。小生はたぶん、アパートと会社の往復しかできないと思
う。
 問題解決のために話しているのではなく、「話すこと」そのものがストレスの解消に
つながると分かってきたのは随分後になってからだ。問題が解決できなければストレス
は解放されないと考えていた小生の脳構造は思い切り理工系だったのだろう。
 いまでも小生は話しべただと思う。たわいない話を楽しく楽しむことがいまいち得意
ではない。女性のおしゃべりは「話すこと」そのものがストレス解消なので、好きなだ
け話させていればいいのだが、その話に相づちを打ちながら聞いているうちに「この話
どこまで続くのか・・」という思いが、頭にチラと浮かんでしまうことがある。
 さて、そんなことはどうでもいいのだ。いまだに分からないあの時のことだ。
つまり新人サラリーマン時代の話である。ここからは文学調モードになる。
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 覚えておかなければならない大事なことは忘れてしまうのに、つまらないことが記憶
の中に残ってるものだ。
 社員100人程度の小さな製造業、工場で働く人たちは地元のパートさんが多く、工
作機械の操作は男の職人の仕事だ。昔からのたたき上げの老職人から、高校を出たばか
りの若い職人が技術をお教わりながら一人前になっていく。大卒は僕を含め、幹部に数
人しかいない。
 女性パートさんたちは、おしゃべりをしながら工場で機械作業をしている。主婦達の
話題は、もっぱら家族のことや、近所のスーパーの事とか、話題にきりがない。現場に
僕のような若い男がやってくると話題は下ネタに変わり、僕らがどう反応するのか楽し
んでいるのだ。
 少ないとはいえ、これだけの人数が居れば誰の家族がどうとか分からない、顔は知っ
ていても名前も分からない。

 その女性は、結婚しているのか、すでに離婚または未亡人だったのかはわからない。
ただ、男性と同居してない事だけは、なんとなく聞こえていた。小柄で目がクリッとし
た、たとえて言えば薬師丸ひろ子タイプである。一方、男の方は現場の長を任された
ロマンスグレーの落ち着いた大人である。物腰の柔らかな話し方には誰にも安心感を与
え、女が何をいっても優しく聞いてくれる度量の深さを感じさせる。風貌を例えるなら
ば、森本レオというところだ。こちらには明らかに家族がいる。
 このレオとひろ子は、なぜか親しくなっていった。工場の終了チャイムがなり、帰宅
時間になると、二人は親しげに話しながら並んで工場を後にする。小柄な彼女は長身の
彼に顔を上げながらキラキラとした微笑みで話をしている。彼は上から優しいまなざ
しを注いでいる。
 こんな姿を度々見せていれば、噂好きの女達がおしゃべりのオカズにしないわけがな
い。「ご主人と別れたから、寂しいんだわ」「あの二人はもうできてるんだそうだ」
「それじゃ、まるっきり不倫じゃないか」「レオさんに家族が居るのを知ってて、ひど
くない?」あることないこと想像は自由におしゃべり空間に解き放たれる。
 女達の攻撃方向はひろ子に向かっていた。レオは他の女性達からも人気があったので
つまりは嫉妬である。
 狭い工場、そんな噂話は当然ひろ子の耳にも届いてしまう。噂話は尾びれ背びれに角
までつけて面白可笑しくしてしまうのが人の性、事実を大きく逸脱するのは常道ともい
える。ひろ子にしてみれば、事実と異なる作り上げられた噂話に傷付いてしまったのだ。
 たぶん、レオさんにも言ったのだろう。女達の前で弁明などしない、したところでど
なるものでもないことは自分がよく知っている。噂話のいじめで会社を辞めるのも癪な
話だ。
 僕は女達の噂は聞いてはいるが、別に気にも留めていなかった。
 工場の窓からオレンジ色の夕日が差し込んできた。終業のチャイムが聞こえた頃、現
場にいた僕の所にその人はやってきた。「あなたにだけは知って欲しいの。私がレオさ
んと不倫していると噂されてるけど、そういうことは全くないんです。色々相談に乗っ
てもらったりしているだけで、不倫とか関係があるとか、そういうことはないんです。
どうしても、あなたにだけはわかってもらいたいんです。」そう言って立ち去った。
僕はうなづきながら聞いているだけだった。
 なぜだろう、入社1年程度の女も知らない青年にわざわざ訴えてきたのだ。少なくと
も僕が、常に冷静で人の噂にヒョイヒョイ乗せられるようなおっちょこちょいでないと
思ったのかもしれない。どっちにしろ、僕には噂を消し去る力はない。その人もそう思
っているだろう。
 なぜあの時、この僕に「分かって欲しい。」と言ってきたのか、これが54歳を迎え
る小生にいまだに謎として残っている。
 ・・・ どうでもいい 記憶として ・・・・・