靖国神社

 先日、たまたま出張先が靖国神社のそばだったので、ついでに靖国神社に寄ってきた。ついでと言っては
祭られている御霊に失礼かもしれない。小生は初めてである。総理がここを参拝すると中国韓国が火のつい
たように騒ぎ出す。そんなに騒ぐなら閣僚が毎日参拝して、中韓を狂い死にさせてしまいましょうか・・

 いったいどんなところなのだろう。何があるのだろうとという単純な好奇心である。

 境内に入れば、街の喧騒がすっと消える。春は見事な満開を咲かせる桜の古木も今は中途半端な紅葉
と枯葉だ。木枯らしにはまだ早いひんやりした空気は我が肉体の煩悩を清めていく。平日なので人影は少ない。
ひとり七五三晴れ着の女の子が社の前で写真撮りのポーズをとっている。この大社は美しい。ここで手を
合わせ、目を閉じればA級戦犯の合祀だ分祀だということが全く意味をもたないことがわかる。みんな祭って
あるのだとすれば分けようがない。勘違いしている人が多いが、ここにおけるA,B,C級とは罪の種類の
違いでありAの方が重罪ということではない。中居正弘主演映画「私は貝になりたい」をみると、この裁判
自体がかなりいいかげんなところもあり、図らずも、あるいは全くの冤罪で処刑されたものもいることが十分
予想される。隣接の資料館では、映像ホールがあり、そこではひたすら家族と国を守りたいの一心で戦地に
赴く時のことを邂逅する老人の姿があった。当時の兵隊さんはみんなそのような国を愛する美しい心を持って
いた。そこには全く私心はない。同じような顔をしていても私欲と妬み嫉みにまみれて乱暴・狼藉・略奪を
はたらくどこかの国の人とは全く民度というかレベルが違うのが分かる。資料館の最後の方ではおびただしい
数の兵隊さんの遺影が展示してある。ここではどれがAかBか意味を持たないのが分かる。

 無念・無念だよ・・ もっと生きたかったに違いない。戦地から戻って家族に会いたいに決まっている。
だれが好きこのんで戦に行くだろうか。だが、誰かがこの汚れ役をやらなきゃならない。これは紛れもなく
犠牲者だ。この人たちに手を合わせ、御霊が安らかに昇られることをお祈りするのを誰がとがめるというのだ。

 最近では東京裁判に対する色々な研究がなされている。キーワードのパール判事の勉強も必要だ。
 侵略戦争であったかどうかも、近年の研究で諸説ある。どう考えても、我が日本人が植民地を作って現地の
人をこき使って、自国の利益だけを企てたとは思えない。迫りくる列強や、拡大し武力とイデオロギーで
押し寄せてくるロシアを防がねばならないという力学が根底にあったのだろう。最近では東京裁判は
本当はどうなのよというサイトが大半を占めてきている。

 玉音放送全文も展示してある。「耐えがたきを耐え・・」の一文しか知らなかったが、全文を読めば
陛下は一貫して平和を願い、戦争を否定し、そしてあの広島長崎の新型爆弾によるおびただしい数の犠牲者
に直面し「これ以上我が民族を犠牲にしたくない、もうやめてくれ。」という声が聞こえてくる。
 最後の一兵まで戦うのではなく、国民を温存し、ここからの再起を願う気持ちにあふれている。
 これは、日本の天皇が自らの贅沢のために庶民から苛烈な重税を搾取するということが、歴史的ななかった
ことによるものが大きいだろう。陛下はいつも暖かいまなざしで我々を見守っているという感がある。
 だから3.11でも暴動は起きなかったのだ。世界的に稀有のことかもしれない。我が国民の民度の高さ
は圧倒的だ。

 歴史的事実さえねじ曲げ、しかも幼少期から洗脳のごとく反日教育していく。愛や幸福を求める純粋な
心の中に憎しみと恨みというマイナスエネルギーを注入された人間はどこに向かって走るのだろうか。
 都合のいい人を集め、用が済んだら粛清する某国の民であることを恥じる日が来るのだろうか。