ディストピア小説の金字塔 「1984」ジョージ・オーウェル

 1949年に発行された当時のSF小説「1984」を読んでみた。噂には聞いていたがどんな話かという興味本位で手に取った。読んだ方もいるかもしれないが、概要は完全なる全体主義、管理主義の架空の国家についての物語である。

 出版当時からすればタイトルにもあるような35年後の未来の世界を想定しているのだろう。結論から言って「救いようがない」ディストピアが圧倒的な筆力によって描かれている。悪臭、汚れ、血のり、痛み、ウソ、裏切り、恐怖、絶望が文章の中から読者に襲いかかる。

 街に多々掲示されている「ビッグ・ブラザー」と称する男は結局実在しない象徴的存在なのだろう。つまりこのディストピアでは「神」なのである。キリスト教的意味の神であれば、人を愛し、慈悲と許しの象徴となるが。この「ビッグ・ブラザー」は全く架空の存在のみで機能をもっていない。

 物語の最終では主人公はこの「ビッグ・ブラザー」に愛を感じるような終わり方をするが、それ自身が絶望的で、つまり「救いがない」後味の悪さを感じる。正直読後感は決して愉快ではない。

 この小説に記された管理社会を構成するための数々のアイテムは2023年の現在、中国において完璧に実現されている。むしろ中国共産党はこの小説を教本として構築してきたと思えるほどだ。

 言語の破壊
 新しい言語として「ニュー・スピーク」を作り出し、党批判ができないように言語を追加・削除していく。
 中国では簡体字といって、従来使用していた漢字を捨てていく。これにより過去の漢字の書籍は徐々に読めなくなり、現在と過去を切り離していく。

 歴史を削除、改ざん、捏造を徹底的に行う。「南京大虐殺」など無い事件を勝手に捏造し、存在した「天安門事件」はなかったことにする。

 テレスクリーンと呼ばれる各家庭や街に設置されているモニタやカメラは中国のおびただしい数の監視カメラやネット制限システムとして具現化している。

 もちろん、党を批判するような人間を問答無用でしょっ引く「公安」も小説通りだ。

 本書を読み進めていく中で、最終的にどんな結論に達するのだろうと期待を持っていたが、結論的結論はなく、途中で読者を放り投げて作者は姿を消す。「おいおい、これで終わりかよ。」感が残る。結局「その後」を述べていない「資本論」と同じで、つまりスタートから失敗の約束されたシステムが「全体主義」なのだというのが小生のすっきりした結論といえる。
 
 かいつまんで言えば、この社会では「美味いもの」が食えない。自由にバカ話や人の悪口を言っておしゃべりを楽しむことはできない。会いたい人に自由に会いに行けない。文化も芸術もすべて官製となればそれはもはや文化でも芸術でもない。これだけ記しただけでも十分であろう。

 「私欲とサディズムによる人間管理システム」が小生の解釈。作者として、全体主義のアンチテーゼとして本作を書いたとすれば、この放り出したような終わり方は、「ほら、こういうことだよ!」と読者に鮮烈なイメージを残したかったのだろう。

 「賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある、小生理工系の頭のせいで社会科の勉強ができない。昔の「歴史」を学んでも現代に意味があるのか、「古文」「漢文」いずれも今の言葉ではないので勉強する意味があるのだろうか。しかしそうはいっても、正しく歴史を振り返る手段があれば過去に知恵を求めることができる。この歴史をそっくり削除、改ざんされることが日常的だとすればこれほど恐ろしい社会はない。

 ある日突然、市の役人が自宅にやってきて、君の家にいるあの年老いた女性は「君のお母さんではありません。」と言われたら・・